昭和46年07月23日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」
限りない、おかげを受けなければなりません。また限りな、くおかげを受けたいと思います。合楽に御神縁を頂かれたら、神様の働きと云うものが、或る意味で素晴らしいなぁと、誰でも信心すれば、ああ云うおかげが受けられるんだと云う様な、手本が幾らも有ると思うんです。まあ一番の、言っておるのは、ここでなら私だろうと思うんです。云うならば、何にもない無一物同様の中から、この様なおかげを受けておる事実が、ここにございますから。
それこそ、食べるに食なく、着るに衣なしと云った様な、そういう状態の中から、いわゆる無一物の中から、無尽蔵にこの様におかげを受けておるという事実をね、皆さんが見られる、それを聞かれる。ですから、誰でも、信心させて頂きゃ、おかげは受けられるぞと云う様な希望が、皆さんの一人一人の上に出来て来るだろうとこう思うんです。ところが、ほんなら、信心しておれば、お参りしておれば、いつかそういうおかげを頂けるだろうと云った様なことは、やはり甘い。
それで皆さん、これ程信心するのに、どうしてと云った様なことに直面する訳であります。頂きたいからなんですね。おかげが受けたいから、どうしてこういう事が起こるだろうかとか、どうしてこういう事になるだろうかと云うことになる。昨日或る方から御礼の手紙がきてる。その中に、この様なことが、まぁ私に対して、こういう様な、おかげを頂きたいと云う様な願いを持っておられる。それをね、今は夢の様な事だけれどもと書いて、秘かにして遠大の願いと書いてある。
ひそかにして遠大、遠い大きいね、大きい遠大な願いを持っておる。またそこに願いをかけておるとこう言うのである。親先生に、一日も早う喜んで頂きたい。ためにはそういうおかげを頂きたいと、切に切に願っておると。それは今の所はまだ、いわば秘かなもの。それは千里の道でも、第一歩からですから。けれどもそれが一歩一歩ね、近付いて行きよらなければ駄目なんだ。ただ、夢を持っておると言うだけでは駄目。その夢にはぁこの調子で行くなら近付けれるぞと言うものなんです。
この調子で行きゃ、おかげが受けられるぞという確信が持てるほどしの心の状態というものはです。一歩一歩前進しよらなければ、それはただの夢に終わってしまいます。昨日も、ある方がお参りになりました。子供さんが来年大学の試験を受けるのです。お父さんが言われるのにこの子は、もう生まれた時から非常にまぁ言うならば、腑の良い子でありますと。他の姉妹達に比べてもこの子は大変腑が良い。子供の時に燃え盛る炭火の中に、紛れこんで落ちた時にも、おかげでやけど一つせずにおかげ頂いた。
沢山布団か何か着せとったげなからね。そう言う様にです、自動車から撥ねられても、死んどらにゃん筈のが、死んどらなかったり。何か盲腸がどうか大変普通ではない盲腸で、もう医者は難しいと言うたけれども、助かったり。もうこの子はとにかく腑が良いですと。有名な学校に行っております。鹿児島のラサールです。中学高校を通じて。その時も、親先生が、朝羽に受けろと仰ったから、受けさせましたら、まぁほんのビリではあったけれども、紙一重の所で入学のおかげを頂きましたと。
もうこの人は本当に、腑が良い男ですと言うて、お父さんが言われるんです。ない命も、何遍も助けて貰うた。だから今度もやはり大学がね、腑が良うまぁそういう調子で行きゃ、腑がよう今の様な勉強じゃ、とても駄目だとは思いますけれども、まぁ腑が良うして、入試が出きるかも分かりません。けれども本人にこんな事を言うたら、はぁ俺はそんなに幸運な男だから、出来るぞと思って勉強を疎かにする様な事があっちゃならんから、言うまいと思いよったけれども。
今日はお神様の前だからと言うてから、親子でここで話されました。それで私は申しました。私ももう生れて六十日振り目には、火の海の中にあったんですからね。私の場合は、やけどを、こんなに沢山やけどを致しました。五歳の時にはもう疫痢で助からんところを、おかげを頂いて助かった。まぁそういう意味なら何回も何回も、ない命を助けて頂いたというおかげを蒙っておる。子供の時に、婆が云うておりました。私のことを指して、この人は金光様の御恩ども忘れるなら罰かぶる。
何べんも何べんも命を助けて頂いておるからと云うて、それが挨拶の様に、婆は言いよりました。それを子供心で、ははぁ自分な、神様のおかげで、何時も何時も助けられておるんだなぁとこう思う。それが段々分かって来らせて頂いたらですね。そういうそれは、大坪総一郎でなからなければ出来ん程しの、これは神様の願いが掛けられておるなという風に感じて来る様になった。
それからね一生懸命、神様の御心に添わせて頂かにゃ、御期待に添わせて頂かにゃならんと云うので、一生懸命の信心にならせて頂いて、今日であります。だからその息子さんにもただ僕は、今お父さんから聞かせて頂いて、僕も初めて聞いた話だろうけれども、ははぁ僕はそんなに腑の良い、幸運に恵まれた自分であると。ほんなら今度の大学受験も、腑が良うして通るかも知れんといった様な甘い考えではなくて、本当に神様が、私に期待してござる。
そういうそこから一心発起が出来るんだと言うて、私は幹三郎が退院してから、この方の生き方を話させて貰った。一心発起すりゃです本当に、どげな事でも出来ます。一心発起致ししますと人間は。だから僕の場合は、一心発起して本気で勉強に打ち込むことだと云うて話したことです。自分は腑が良いから、腕こまぬいとっても通るだろうとか、おかげ頂くとか。例えば合楽に御神縁を頂いておるから、そういう生き生きとした御比礼の輝いておる教会であるから。
こうして毎日お参りしよりゃ、いつかおかげを頂くじゃろうといった様な、甘い考えじゃいかんと云うことです。これはまぁだ、自分の一心が足りぬ、自分の信心が足りぬのじゃと思い、一心に信心して行けばと。だから自分の信心の足りない事を気付かせて貰うて、お参りの上にも、様々な上にです、工夫をさせて頂いて、まあ次の信心に飛躍して行く、進んで行く。それでもおかげが受けられん。成程、色々な生き方を思いつかせて頂いて、確かに、そこからおかげを受ける様な場合もあります。
けれどもここでは、一心の信心をして行けば、そこからおかげは受けられると仰る。これは絶対の一心とは、どういう一心の信心をさせて頂いたら、おかげに展開して行くかと。口には云わんでも、只今ここで大きな「おいさみ」がありましたね。今私が言おうとする事を、皆さんが本気で実行せにゃいけんからです。どこに一心を持って行くかと。私共は、口には言わんでも。これ程信心してお願いをしよるとに、どうしてこのことばかりは、こげんおかげにならんじゃろうかと。
と思うておる事は、どうしてこの様なことが起こるであろうかと思えば、信心はもう止まっておると云うことなんです。そういう思いが湧く時には。昨日も手広うお商売をしておられます。ところが従業員の人達がもう移り変わり、変わったりまぁそれこそ義理も人情も無い様に他の方へ変わったり、もう店の方では大変その為に困る。自分の手に足になって貰わんならんと思う様なのが、もう予告もせずにスパッと辞めたり大変困る。先生、どうして私の方は、こげな風になるじゃろうかとこう言うのです。
いわゆるそれなのです。どうしてこの様なことが起こるであろうかというのがそれなんです。どうしてじゃかなぁ。あんたも一生懸命信心しよるとに、と云うておりましたら。私の心眼に頂くのがね、丁度プールの様に、四角いプールの様な水がいっぱい溜っておる中にね、馬が何頭も入って泳いでおる所を頂いた。だから人間が入って、泳ごうと思うばってんから、馬があんまりあっちこっち、何匹でん泳ぎよるもんじゃからね、人間が入って泳がれないと云うところの様子を頂いた。
私は本当に、この人の事じゃない。皆が頂かんならん。私自身頂かにゃならん事だと思うて思うた事でした。お互いの心の中に、神様のお嫌いになる汚い心卑しい心。馬のお知らせは、いわゆる卑しい心と仰る。馬が二匹集まるとうまうまと云うでしょう。それが二匹位のことじゃ無かもん。何匹でんじゃん。だからもう本当にやっぱり、その卑しい心が沢山あるち言うこと。信心させて頂いて、どこに焦点を置いて信心しよるか。どうして信心しよって、そげな汚いことを思いよるか。
人間が汚い。限りなく美しゅうなれ、限りなく美しうなれと。その為には改まらにゃ本気で改まらにゃ。信心は本心の玉を研くものだと、本気でそうして研かにゃそれこそ口癖の様に、ここで御理解頂いておるけれども、その汚い心自分の汚い心をとっちめて、その汚い心を取り除こう。そこから改まった、新たな生活にならせて頂こうと云う様な精進をしない。これじゃ人間がね、中に入っていわゆる泳げないのです。云うなら活動出来ないのです。店の者が働きが悪いとか、又は店に迷惑を掛けるとかと。
店の為に本当に働かれる場と云うものを、主人そのもの卑しい心で、そこのところの働きの場を狭くしたり、無くしたりしておる訳である。随分こちらもおかげを受けて来た。けども、もう一つ、ここのところ、様々なあの手この手、御用も随分出来る。だから昨日の御理解じゃないけれども、本当に御用させて頂いて、おかげを受ける事もある。今迄一遍参りよったとを、二遍参るという様な事で、おかげ頂くこともある。人の真似の出来ぬ様な表行をさせて頂いて、おかげが展開してくる場合もある。
もうそういう様々なところ通らせて頂いて、おかげを受けてきた。けれどもねいよいよ本当のおかげを頂かなければならない。それこそ、秘かにして遠大な願いを持っておる、お互い持って居るでしょうが。そういう遠大な願いと云うものを持っておるならばです、その願いが成就して行くことの為に、私共が一歩一歩、その願いに近づかせて頂ける様な本当の修行をさせて頂かなければいけない。
四角い大きなプールということはです、これだけお恵の水がある。これがもし、馬が引き上げられたら、それこそ、何十人の使用人が自由自在に泳ぎ回れる程しの場を頂きながらですよ。その中に馬が何匹も泳ぎよるもんだから、危うしてから入られんとじゃん、泳ごうと思うても。どうして家の番頭だん、いっちょん動かんじゃろうか、どうして家の番頭だん、こんなに云うこつ聞かんじゃろうかではないて。
自分自身の卑しい馬を引き上げてごらん。それこそ泳ぎ回る事が楽しい様に、そのお店の為に働くことが楽しい様に、従業員が、それこそ主人の手になり足になりして、動いて行ったら、大繁昌を受けることは間違いないこと。そこに遠大な願いが成就して行くのである。自分のその改まると云うこと。限りなく美しゅうなろうと云うことには焦点を置かずに、只どうして、家には店員達が居付かんじゃろうか。どうして家の店員は、こんなに悪いことをするじゃろうか。どうも家の店員は不行届きだ。
この店員はと思いよったつは、予告もせずに辞めさせて貰いますと云った様なことをする。いよいよ主人は迷惑なんです。どうしてじゃろうか。これ程信心するのに、どうしてと言うてる訳なんです。どうしてと云う前に、これはまだ自分の信心が足りんからじゃと云うところをです、これはまだ自分の改まりが足りんのじゃと、そこに一心を置くのです。そこに一心発起するのです。本気で限りなく美しゅうならせて頂く為に、まずそこんところを改まらせて貰う。
そこん所には、口をぬぐった様にしておきながら、そこん所は自分の悪い所は棚に上げながら、どうしておかげが受けられんじゃろうかと云う様な事では、それは秘かにして遠大な願いを持っておっても、その遠大な願いは成就して行かないと私は思う。これは自分の信心が足りんのじゃというところで、合楽の方達の場合など、様々なあの手この手で信心のなさった方達ばっかりだからね、特に朝参りなさる方達は。
ですからいよいよこの改まりのところにです、その馬を一匹一匹、引き上げて行かにゃ。そこに自由自在に泳ぎ回れる人の場と云うものが出来ると云うことは、そのまま、おかげの受け場と云うものが、そこに出来るのです。それならば間違いなくです、一心に信心して行けばと云うところをです、様々な意味合に於て、一心に皆さん信心なさった。けれどもまだほんなら、どうしておかげが受けられんじゃろうかと云う事が、もしあるならば、この一心をです一心の信心をです。
本気で自分の汚いものを取り除かせて頂くことのために一心をそこに立てるのだ。改まることの為に一心を立てるならばです、そこからおかげが受けられる。私はおかげが受けられることを確信致しますです。私は合楽の方達の場合なんか、殆どが確かにおかげを頂いたなら、大きな御用も頂きたい。おかげを頂いたら、確かに愈々熱心に信心なさる事になるだろう、合楽の方達はそう思う私は。それは私は信じます。皆さんそこまでの信心は出来とる。本当に遠大な願いを持っておられると思う。
この方じゃないけれども、本当に親先生に、お喜び頂ける様な遠大なおかげを頂きたいと、今は、秘かではあるけれど、それを願い続けておる、願い続けておるだけじゃいけん。それは結局そういう素晴らしい夢を持っておったけれども、一生の間にただ夢を持ち続けたと云うだけにすぎない。それこそ夢にも思わなかった様な事柄が実現してくる程しのおかげ、金光様のおかげと云うのは。その夢にも思わなかった様なおかげが展開して来る。そういうおかげを頂く為にですね。
本気でこれは昨日お取次させて頂いた、その方だけの為ではありません。お互いが遠大な願いを持っておるから、その遠大なおかげの受けものと云うのは、神様が与えてござるかも知れん。けどもその中に汚い心卑しい心、こげなことだけはしちゃ出来んと言った様なことを平気でしておる様な、商売人じゃけんこの位のことは仕様が無かと云った様なです、汚い手段人間として、そういう事はいけない事をです、平気でやっておる様なことでです、おかげが頂けるとは思われん。
一心の信心をすればそこから、おかげは受けられるとと仰るのは、そこからのおかげです。今日私が言ってるのは。だから皆さんおかげを受けて参られた。それは様々な信心あの手この手で信心させて頂いて、云うならば信心も何と申しますか、まぁベテランです皆さんの場合は。合楽の方達はいわば誰かが言いました。合楽には一騎当千の強者ばかり揃うちゃると云うて、或る先生が言われたが、私もそげん思うです。
けれどもねそこまで頂いておりながらです、それから先のおかげを受けられんのはどうしたことか。今日私が申します様なところに、一心を立てないからじゃなかろうかと思う。そこんところに一心を立てる。おかげを頂いて、腕挫いとっただけで、いくら腑が良かったっちゃ、いくら神様が白羽の矢を立ててござってもです。私が、如何に小さい時から、何回も何回も無い命を頂いておってもです。
二十数年前の様な信心であったら、やっぱり神様もがっかりなさったであろうとこう思う。そこんところからです、一心発起させて頂いて、云うならば、お心に少しでも叶う信心をさせて頂いたおかげで、そこからのおかげが、それこそ夢にも思わない様なおかげが展開して来た訳ですから、皆さんもここんところをですね、もうそこまで信心が、皆さんの信心な進んでる。だから、そこんところを乗り越えさせて頂く信心をね、させて頂いていかなければならんと思うのでございます。
どうぞ。